事典エイト - 新興宗教への警告 - 第1章 現代宗教の流れ

イスラム原理主義とは

一方、イスラム世界にも原理主義が横行しております。 テロやハイジャックなどマスコミを賑わすことが多いので皆さんにはキリスト教の原理主義よりもイスラム原理主義の方がなじみが深いのではないでしょうか。 彼らもやはり現代のイスラム教とイスラム諸国は堕落しており、 イスラム教の聖典であるコーランに帰れと主張しているのです。

ヨーロッパにおいては自分たちの国や文明の将来への不安が最近の宗教運動の底流になっていることをお話ししました。 また、アメリカにおいては将来への不安もさることながら科学技術至上主義、物質文明至上主義、 経済効率至上主義への反発が聖書をもう一度見直そうというキリスト教原理主義の原動力になっていました。

それに対してイスラム諸国では欧米による植民地政策によって伝統的な文化や習慣が押さえつけられてきました。 第2次大戦後、これらの国々は次々に独立していきましたが政府の中枢部は欧米の大学に学んだ人たちがほとんどで、 その政策も欧米諸国に追いつき追い越そうというものでした。

しかし、これらの政策は一部の産油国以外では成功することなく、 農村は荒廃し、都市には失業者が溢れ、政府の借金は増えるばかりでした。 このような情勢の中でイスラム教の原典であるコーランとマホメットの教えに戻ろうという運動が起こってきました。 これがイスラム原理主義運動です。

しかしながら、その主張のおもな点はメッカへの礼拝を欠かすなとか、 女性は外出時にはベールをかぶらねばならないといった表面的な教えを遵守することを強制するものでした。 マホメットが好んだ服装や食べ物を重視するといった個人崇拝的な要素も含めて、 宗教改革というよりは伝統文化の復活に重きを置いた主張です。

ですから、一部の過激派はイスラエルの味方をしてイスラム諸国に圧力をかける欧米諸国に対して誘拐やビルの爆破、 旅客機の乗っ取りなどのテロ行為を繰り返ているのです。 何故かと言いますと、このような外面的な原理主義は人の命を大切にせよとか、 心の安定を求めよといった本来の宗教の持つ基本的な側面がおろそかになりがちだからです。

欧米文化がイスラムの教えを浸食しているからといって、 自分達が聖書やコーランに書かれている教えの精神から逸脱してしまっては何にもならないのです。 この点が多くのイスラム原理主義者の人たちにはわからないようです。

確かに原理主義というものは宗教を志す者にとっては魅力的な思想です。 自分が本当に信ずる聖典を徹底的に研究してそこに書かれた通りに振る舞おうというのですから。 しかしながら、宗教的に低いレベルに留まっている人たちは往々にして書かれた言葉を文字通りに受け取ってしまいます。 イエスさんは今から二千年も前の人ですしマホメットさんも西暦でいうと7世紀の人です。 同じ言葉でも時代が変わり、また地域も違えば自ずから受け取り方が違ってきます。

原典を研究するということは大切なことですが、 その時に気をつけなければいけないのは、原典が書かれた時代の人間になったつもりで読まなければいけない、ということです。 自分がその時代へタイムマシンで行ってみて直接に教祖様の教えを聞いているつもりで研究しなければならないのです。

仏教のお経の中ではいくつかの車に関する言葉が宗教用語として比喩的に用いられています。 例えば、大乗(おおきな乗り物)、法輪(仏法が車輪のように回転してく様子)などの用語は皆さんも一度は耳にしたことがあるでしょう。 では何故、車に関する言葉が比喩として使われているのでしょうか。

お釈迦さんは今から二千六百年ほど昔の人だったと言われております。 そのころは、ようやくインドやお釈迦さんの生まれたネパールにも車という便利な道具が普及してきた頃でした。 もちろん車といっても今の自動車ではなくて、牛や水牛に引かせる荷車のことです。 しかし、これでも当時の人たちにとっては何人分もの荷物を一度に運べるようになったのですから大変な進歩であったわけです。

お釈迦さんはそのことに目をつけられて、自分の説く教えは今までのバラモン教などとは違って新しくて非常に役に立つ教えなのだということを示すために最新の道具に関する言葉を比喩として用いられたのです。 ですから、皆さんも原理主義者の人たちの怪し気な解説を聞くのではなくて、 実際にその時代の庶民になったつもりでそれぞれの教祖様のお言葉をもう一度読み直すと新しい発見があるかもしれませね。