秀吉はなぜ朝鮮へ出兵したのか?

今年のNHKの大河ドラマは「秀吉」であった。

彼は百姓の子せがれから、織田信長の草履取りや馬屋番を経て、ついには天下人にまでなった、日本史上、最高の立身出世物語の主人公である。

彼は城攻めを得意としていた。鳥取城の干殺し、高松城の水攻め、小田原城にこもる北条氏攻めなどが有名だが、なぜ彼は城攻めにこだわったのだろうか。

それは彼の出自に負っているのだ。

大名でなくても、ひとかどの武士の家柄であれば、先祖代々仕えてくれる家来衆がおり、その家を継ぐ者は子供の頃から彼らや彼らの子供達と遊びながら戦さの基本を学んでいく。

家来衆の子供達もまた、そのなかでたくましく育っていく。

これが室町時代までの軍事力の根源であった。

しかし、秀吉には代々仕える家来はいない。

織田家の中でも新参者と呼ばれ、足軽大将に出世しても彼の部下は蜂須賀子六のような正規の軍事訓練を受けていない野武士たちが主体であった。

一方、明智光秀はもともと東美濃の明智城主であった明智氏の本流であり、足利将軍家の足利義昭に仕えていた。

一時、美濃の戦国大名の斎藤氏ににらまれて不遇の時代が長かったが、美濃には彼の親戚も多く、彼自身も正規の教育を受けていたようである。

だから、百姓の子せがれの秀吉とは立場が違うのだ。

秀吉の軍勢は表立った野戦では、誰が見ても明智光秀や織田家の譜代の家臣である柴田勝家や丹羽長秀の軍勢よりも劣って見えたことだろう。

長篠の戦い以前の野戦では将校や下士官クラスの指揮能力や騎馬能力の差が大きくものをいった。

貧乏な野武士にはいい馬を買う銭もなかったであろうし、大人数の足軽を指揮したこともなかった。

そんな彼らが急にすばらしい指揮官になれるはずもない。

だから秀吉は城攻めを選んだ。

というよりも、野戦では単独で勝てる自信がなかったのだろう。

城攻めならば馬に乗れなくてもできる。

守る方はともかく攻める方は秀吉なり軍師なりがあらかじめ持ち場を割り振って、あとはひたすら敵が降伏するのを待てばいいだけだけだ。

ただ、城攻めには少なくとも守備側の3倍の兵力は必要だ。

毛利攻めの時のように、援軍が来た場合には、それを防ぐための兵力も別に必要になる。

五分五分の兵力では城攻め側がかえって撃退されてしまうことも多い。

そして、本能寺の変以前は秀吉軍は必ずしも毛利以上の兵力ではなかった。

その不利を秀吉は経済力でカバーした。

もちろん、堺の小西家や千利休などからの借金である。

彼は堺の町衆から借りた銭を使って、鳥取城周辺の米を買い占めて本格的な毛利の援軍が来る前に食料がなくなった鳥取城を開城させ、高松城の周囲に土嚢を積んで高松城を水攻めにしたのである。

秀吉は銭の力で天下人になった。

しかし、その財政は万全とは言えなかった。

柴田勝家や北条氏、長曽我部氏などは滅ぼしたものの、徳川、伊達、毛利、上杉、島津などの諸大名は広い領地を持ち、大軍を養っていた。

一方、豊臣家は京、大坂といった経済の中心地を押さえ、生野銀山などを支配下においていたが、いかんせん領地はそれほど広くなく、また、その領地をうまく運営できる才覚を持つ人材にも恵まれなかった。

とは言っても、彼を支援してくれた堺の町衆などに高い税をかけると、彼らは別の大名を支援して、豊臣の天下そのものが崩壊してしまう危険性があった。

いちばん手っ取り早く銭を得る方法は略奪、強奪である。弱い大名を滅ぼして、その領地を没収し、城に貯えてあった銭を奪えばいいのだ。

秀吉は有力大名を国替えし、その後に信頼できる部下を大名にして配置するという方法をとった。

直轄領にしたくても、安心して代官に任命できる人材もいなかったし、力のある者は代官に甘んずる気はなかったからだ。

しかし、これでは根本的な財政再建にはならない。

むしろ、大坂城や醍醐寺、伏見城などの大規模な工事が財政を圧迫していたはずだ。

そこで、小西行長石田三成らが考え出したのが朝鮮出兵である。朝鮮半島へ 出兵して遠く明国にまで攻め込み、金銀財宝を略奪する。

これなら、欲望に目覚めた秀吉配下の大名たちも励みになるし、豊臣政権に批判的な大名達を直接攻撃することなく、ボディーブローのように彼らの力を弱めることが可能だ。

そして、当時の朝鮮半島は必ずしも外敵の侵入に対して万全の備えができているとは言えない状態だった。

秀吉は勝てると踏んだのだろう。

事実、最初のうちは圧倒的に有利だった。

そして、その間に略奪、強奪を徹底的に行った。

しかし、秀吉の意図を察知した明国が介入してくると情勢は一変する。

この朝鮮出兵によって秀吉配下の多くの将校クラスの人材が失われ、石田三成ら出兵を企画した人たちと加藤清正らの実際に朝鮮半島で苦労した 人たちとの間に感情的な対立が生じてしまった。

そして、秀吉の死後、堺の町衆も豊臣家を見限り、徳川家康が天下を制することとなる。

アルビントフラーは「第3の波」の中で権力の源泉は軍事力と経済力と情報力だと述べている。

秀吉はあまりにも経済力に頼りすぎたのではないか。

東アジア全体を視野に入れた情報網があれば、朝鮮出兵が明国の介入を招き、軍事的に勝利できる可能性が小さいことが理解できたはずである。


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